2008年03月16日

映画の中心地・ハリウッドの歴史を振り返る

1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行するが、1910年にロサンゼルス市と合併した。

20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであった。

特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー を1908年に設立した。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求された。

参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行した。

カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作した。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、映画人が集まり始めた。

又、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくる事を察知して国境を越えて逃げる事が出来た。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされた。

カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移した。

当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かった。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影出来なかった。電球などの照明はあったが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保出来なかった。

そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていった。

最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられた。

まだ民族差別の激しかった時代のハリウッド・スターや監督達は、出自を偽る事が多かった。当時はまだワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからである。
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